Blogarithm

ライブなどの感想を放流したり、とりとめのないことを書き留めたりします。

覚悟

 以前から心配してはいたものの、なかなか言い出せなかったことがありました。『パレイド』や『ファーストプロット』の人気が非常に高いことについて、夏川さんは心中複雑なのではないだろうか、ということです。これらの楽曲を超えるものを作れるのかという不安や重圧を、私は勝手に推察していました。

 もちろん、夏川さんが新曲をリリースしたときに帰ってくる反応のほとんどは好意的なものでしょう。その好意は決して嘘ではなく、私たちのほとんどは本当に全ての曲を愛しています。しかし、その好意の総量は必ずしも一定ではありません。CD の売上はもちろん、ストリーミングでの再生数、ハッシュタグ企画でのツイート数など、様々な形で好意は定量的に測定されます。好意の総量は嫌でも可視化され、絶えず過去の自分との競争を強いられるのです。このとき、『パレイド』のような非常に人気が高い楽曲は、それだけ高い壁となって立ちはだかります。

 このような状況に対する焦りが、『ハレノバテイクオーバー』の歌詞にあらわれているのではないか、というのが私の考えです。(無粋ながら予防線を張ると、私の推察が杞憂ならこの文章は全て的外れになります。)

どっち見てんだよ こっち向いてよ 見たことの無いドア 開けようよ

"今まで"じゃなく"これから" そうだよな

掲げた拳にちゃんと意思はあるか?

過去からの惰性ではなく、前を向いて意思を持ってついてきてほしい。聞き手にそう呼びかけるような歌詞には、力強さと表裏一体の切実さや焦燥が感じられます。

 しかし、この曲は過去というハードルに直面した不安だけが込められているわけではありません。苦しみながらも筋書きを立て、青空の下へと進んでいく決意が歌われています。

掲げた拳を後悔なんかはさせない!
けど 君にも覚悟をしてほしいんだ

この歌詞は自負の現れであるというよりは、むしろ自信が不完全であるからこその覚悟の表明なのではないでしょうか。賛同する方ばかりではないと思いますが、私はそのように解釈しました。

 ところで、「君にも覚悟をしてほしいんだ」という歌詞について、「君」は具体的にどのような覚悟を求められているのでしょうか。作詞側に明確な想定があるかもしれませんし、ないかもしれません。ここでは、私自身の「覚悟」について書いてみようと思います。

 私ははじめに、夏川さんの焦燥を(勝手に)心配していると書きました。ですがそれだけではなく、その焦燥こそがきっと次の曲をより良いものにするのだろう、とある種の期待も抱いていました。今までの楽曲―特に人気で、高いハードルとなった過去の楽曲―が、悩みや苦しみの先に行き着いたものであるからです。このことに気づいたとき、自分が他人の焦燥を期待していることを自覚し、冷や汗をかくような不気味さを覚えました。

 音楽に限らず、一般に作者が苦しんで作った作品が良いものであることは非常によくあります。もちろんそこには必要性も十分性もないですが、古今東西、具体例はいくらでも挙げられます。

 このとき、ある作者が悩み抜いた作品を愛することは、どのような意味を持つのでしょうか。作者が同時代の人であるならば、観客は自然に次の作品を求めます。次の作品もきっと苦しみ抜いて、素晴らしい作品を作ってくれるだろうと望みます。他者の苦しみを望むこの行為は、その原動力がどんな感情であろうが、呪いと呼ぶしかありません。

 表現者の側では、ある程度これを割り切ることも必要でしょう。表現が商業的であり、観客との非対称性が強い場合にはなおさらです。しかし私には、表現を受け取る側が愛と呪いの同義性を割り切ってしまうべきなのかはよくわかりません。

 私にできることは、それが呪いであると知りながら次の舞台を望むか、あるいはそれを諦めて過去だけを愛するかのどちらかです。私の愛する表現者は、後者は望まないと歌い上げています。であれば私は自分の行いから目を背けず、あえてその残酷さを割り切らず、「これから」を愛し続ける。これが私の小さな覚悟です。