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ライブなどの感想を放流したり、とりとめのないことを書き留めたりします。

朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」感想と考察(後編)

 

朗読劇「三つの愛と、厄災」の感想と考察の後編です。『パンドラの匣』『夜長姫と耳男』の感想を書いています。

前半 2 作品、『マスク』『風立ちぬ』の感想は下のリンクからお読みください。

iz511.hatenablog.com

 

3. 太宰治パンドラの匣

原文は青空文庫で公開されています。

3.1 あらすじ

終戦直後、主人公・ひばりは結核のため「健康道場」と称する療養所で過ごす。そこでの生活や恋愛模様を、「君」への手紙の形式で記した小説。

3.2 作品の感想

作者とタイトルからかなり暗い物語を想像していましたが、時代背景を除けば最近の作品と言われてもわからないくらいの明るい恋愛小説だったので驚きました。タイトルの『パンドラの匣』も劇中で少し触れられる程度で、題から想像されるような主人公が結核で苦しむ描写はほとんどありません*1。戦争を経た思想の変化についての描写も少しはありますが、それは価値観を新たにした主人公が病気を悲観していないことが分かる程度です。恋愛小説として以外の解釈が何も思いつかなかった、というのが初見時の感想でした。

思想的描写が少なかった理由は単純で、劇の時間的制約によるものだと思われます。元の小説がそれなりに長いため、主要なシーンのみを繋いだようです。それではなぜ、「三つの愛と、厄災」にこの小説が選ばれ、恋愛を中心に構成されたのでしょうか。劇作家さんの真意は全く違うかもしれませんが、私は勝手に二つほど理由を考えました。

一つ目は少しいやらしい見方ですが、恋愛小説は見せ場が作りやすいからではないかと思っています。今回は声優さんが出演する朗読劇ですので、観劇するのは(私もそうですが)演者さんのファンが中心になります。あえて思想的な場面を少なくし、恋愛の物語を演じる演者さんの魅力を最大限に引き出そうとしたのだと思います。私も色々な立場で恋愛を演じる夏川さんが見られて嬉しかったです。

私がこのような解釈に至ったのは、エンターテインメント性を強く意識したと思われる場面が終盤にあるからです。その場面とは、ひばりと竹さんが

「やっとるか?」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「……よしきた」

という一連の挨拶を交わすシーンです。物語のクライマックスとなる情感のこもったシーンですが、なんとここの掛け合いは原作にありません。

ここの台詞がかなり現代の小説らしいと感じられたので、青空文庫をあたって原作にないとわかったときには驚きながらも得心がいく思いでした。何度か出た台詞を違う状況と意味で使う手法*2は悪く言えばベタですが、それだけ多くの人の心を動かす王道の手法であるともいえます。噺屋の純粋な技術が求められる古典落語のように、王道の展開だからこそ演者さんの魅力がより引き出されたのではないでしょうか。

二つ目の理由は、もっと気軽に文学作品に触れてほしい、という思いではないでしょうか。今回観劇された方で、普段から明治時代の文学作品に触れているという方はそう多くないでしょう。日本文学と聞いて高校の授業などを思い出し、難しそうだと思われた方も少なからずいらっしゃると思います。現代文の授業のように(そして私がやっているように)空回りするくらい深読みするのも読み方の一つではありますが、それが正しいわけでも高尚なわけでもなく、もっとシンプルに作品を楽しんでいいのだと感じました。

とはいえ私は深読みしかできないので、『パンドラの匣』という題についての考察を少し書きます。この小説は手紙の形式を取っているので、視点は手紙を受け取る友人にあると解釈することもできます。友人はひばりに「古いな」と指摘されますが、ここから戦後の価値観の変容にややついていけていないことが推察されます*3。手のひらを返すように新たな価値観に適応したひばりを含む多くの人々に対し、友人はやりきれない思いを抱いているようです*4。そんな友人にとっては終戦に伴うパラダイムシフトこそが「パンドラの匣」を開けた結果だったのでしょう。

この解釈は非常に遠回りなようですが、それなりに根拠はあります。その一つは快活で「人間に真の〈絶望〉はあり得ない」と唱えるひばりと自殺を遂げた作者・太宰治が似ても似つかないということです。作家の思想と登場人物の思想は必ずしも関係しませんが、あえて自分と対照的な人物としてひばりを創造したとも考えられます。ところでこの小説の発表は終戦からたった二ヶ月後であり、GHQ による検閲が行われている時期でした。検閲がどの程度厳しかったのかは分かりませんが、価値観の変化を直接的に批判することは避け、作家と対照的なひばりを通して間接的に違和感を訴えたのかもしれません。ちなみに同じ作家の『走れメロス』にも、メロスとセリヌンティウスの友情を羨む王様こそが太宰と重なる真の主人公であるとする解釈があります*5

3.3 劇の感想

現代的にいえばツンデレのマア坊、関西弁で大人の魅力が光る竹さん、そして若者らしい明るさと初々しさにあふれたひばり・友人とそれぞれの人物が個性的で、見ていて楽しかったです。私が特に好きなのはマア坊を演じる夏川さんの演技です。頬を膨らませたり、泣きそうな声でひばりに詰め寄ったりと、どのシーンも可愛くて可愛くて仕方ありません。

軽口を叩きあうひばりと友人のコンビも、男子学生の青春が感じられて心和みました。竹さんの関西弁を真似るひばりの絶妙ないやらしさや、真面目な友人が竹さんに照れて緊張しきりな様子の演技にとてもリアリティがあり、すごく引き込まれました。

3.4 細かい話

ひばりの手紙に、「古い気取り」という語句が現れます。これを「トライセイル」と同じ発音で一語で読まれる方と、「ひかるカケラ」と同じ発音で二語に区切る方がいらっしゃいました。作家の意図はおそらく後者ですが、現代では「気取り」という名詞はもっぱら接尾語として用いられるため前者の発音が現れたのでしょう。言葉の移り変わりを感じました。

4. 坂口安吾『夜長姫と耳男』

原文は青空文庫で公開されています。

4.1 あらすじ

飛騨の仏像職人・耳男は年若い夜長姫のため、護身仏の制作を命じられる。しかしその耳を馬鹿にされた挙げ句に斬り落とされた耳男は、意趣返しとして化け物の顔の仏像を作り上げる。ついに仏像が完成した年、村には疫病が訪れ、夜長姫は本性を表す。

4.2 物語の感想

全く物語を知らなかったので、衝撃的な展開に驚くばかりでした。最初に耳が斬り落とされるシーンまでは一切物騒な描写がないので、耳男に勝るとも劣らないくらい驚いていたと思います。その後も迫力のある展開が続き、民話的な世界が眼前に浮かんでくるようでした。

この作品は前近代を舞台にした暗示的な物語であり、創作論、恋愛論といった多様な観点から考察されています。ここでは主に、夜長姫が何を象徴しているのかをキーとなる疫病と合わせて考えてみたいと思います。

一番単純に考えれば、夜長姫は「死」そのものを象徴していると言えるでしょう。死は地位や善悪といった人間世界の論理とは無関係に私たちに訪れます。そこでは究極の平等が達成され、何かと苦しみの絶えない生から人間が解放・救済されるとさえも考えられます。疫病がときに神格化される*6のも、人々が死に対し単なる恐怖以上の感情を抱いているからでしょう。死の持つこのような性質が、夜長姫の無邪気かつ不条理な性格、そして恐ろしいほどの魅力に反映されているといえます。

美しさに魅了されながらも、耳男は化け物の像の制作を通して死と戦うことを選択します。その原動力となったのは耳を斬り落とされた痛みであり、夜長姫の笑顔に圧倒される恐怖です。生存本能は死に瀕して最も力強くなり、化け物の像として結実します。一方、耳男がその次に彫ったヒメの顔をもつ弥勒が評価されなかったのは、当初の痛みや恐怖が薄らいでいたからだと考えられます。

小説の後半、二度目の疫病の際に夜長姫は村人の死に見惚れる様子を見せ、村中の人々が死ぬよう祈り始めます。その姿の美しさと怖ろしさに「人間世界はもたない」と感じた耳男は、激しく動揺しながらも夜長姫を殺します。

今までの解釈に沿って考えれば、この殺人は耳男が死の誘惑を乗り越えたことを示しています。しかしその超克は決して、生への決意と覚悟に満ちた力強いものではありません。刺されても平然として耳男の創作に助言さえしてみせるヒメと対照的に、あたかもヒメから逃げるように殺す結果となりました。

以上の解釈は、エピローグで紹介された同じ作家による追悼文『不良少年とキリスト*7』の内容と概ね一致しています。

人間は、生きる事が全部である。死ねば、なくなる。
然し、生きていると疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思うときがあるですよ。戦い抜く、言うは易く、疲れるね。

人間は決して勝ちません。ただ、負けないのだ。

生を無条件に称賛するのではなく、その苦しさと空虚さに向き合いながらも前に進んでいく作家の姿勢こそが、彼の小説や追悼文が私たちの心を動かし続ける理由なのだと思います。

さて、夜長姫の象徴性について、一歩踏み込んだ解釈をしてみます。夜長姫は、特に戦争による死を象徴しているのではないでしょうか。

この小説が発表されたのは 1953 年、太平洋戦争の終戦から 8 年後のことです*8。それを踏まえると、夜長姫の精神性は戦時中に規範とされたものと重なってきます。耳を削いだり血を飲み干したりする残虐な行為への無頓着さや、自分のクニの人が「キリキリ舞い」をして死ぬことを賛美する様子は戦時下の狂気と酷似しています。

夜長姫が戦争の象徴だとすると、この小説全体が戦争への警鐘だと捉えられます。例えば耳男は蛇の生き血を飲む行為を、夜長姫が真似るまで怖ろしいと認識していませんでした。夜長姫の美しさに我を忘れ耳男が自らの残酷さに気が付かなかったように、戦争は魅力的であり私たちの正気を麻痺させかねないと警告を発しているように思えます。『パンドラの匣』の登場人物のように終戦直後に思想を翻した人々は、いつでも戦争の魅力に再び取り憑かれる危険があるのです。

夜長姫と戦争を重ねる解釈はある程度一般的なようです。観劇後に知ったのですが、劇作家の方は 3 年前に「〈反戦〉をテーマに構成」*9した『三つの愛と、殺人』を上演されていて、この作品も演じられたそうです。私が当時全く存じ上げなかったことをかなり悔やんでいます*10

4.3 劇の感想

登場人物、特に夜長姫の解釈が演者さんによって大きく分かれたことが感じられ、非常に面白かった作品でした。

夏川椎菜さんと鶴野有紗さんの演技は、夜長姫の無邪気さが印象的でした。戸を叩くシーンの夏川さんの楽しげなのに恐怖を感じさせる声や、村人が次々と死ぬシーンでの鶴野さんの純粋な笑顔が鮮烈に思い出されます。

一方、山崎はるかさんの夜長姫は耳男に明確な悪意を持っていると感じました。倫理観を持たない (amoral) 超越的な存在としてではなく、倫理にあえて反逆する (immoral) 人間的な存在として夜長姫を演じられています。仮に私がこの小説を一人で読んでいたら絶対に辿り着けなかった解釈だと感じ、朗読劇に来てよかったと改めて感じました。

一人の人間としての夜長姫について、私は次のように解釈しました。夜長姫は長者の娘であることやその美貌だけが取り沙汰され、その内面を見ようとする人はどこにもいません。時代を考えると、政略結婚の道具として使われることも予期していたのでしょう。同じく美しさだけが評価された奴隷・江奈古への強い共感や社会への敵愾心が生まれるのは自然なことです。

夜長姫の解釈の違いはラストシーンにも現れています。夏川さんと鶴野さんの夜長姫は刺されても穏やかに話し続けますが、山崎さんの演技では苦しそうに、息も絶え絶えに話しています。耳男に対する台詞の中に、夜長姫自身の感情が鋭く伝わってきました。

全体的に迫力のあるシーンが多く、圧倒され続けた作品でした。どれか一作品だけを勧められるとしたら、迷わずこの作品を選びます。

4.4 余談

おそらく偶然ですが、私の見た夜長姫は全員茶髪か金髪でした。そのせいで頭の中で思い浮かべる夜長姫は必ず金髪をしています。時代設定を考えると多分黒髪ですが、あえて金髪で映像化してみても面白いキャラクターだと思います。

 

5. あとがき

ここまで読んでいただきありがとうございました。前編と合わせて一万字を超える分量となってしまい、自分で驚いています。

感想が長くなってしまったのも、朗読劇にそれだけ心を動かされたからです。初めて観たこの朗読劇を、私は一生忘れないと思います。

素晴らしい朗読劇に出会わせていただいた出演者の方々とスタッフの皆様、そして朗読劇を知るきっかけとなった夏川椎菜さんに感謝をお伝えしたいと思います。ありがとうございました。

*1:そのためか、1947 年に映画化されたときの題は『看護婦の日記』に変更されています。

*2:平たく言えば、「1 話でヒロインに助けられた主人公が最終話でヒロインを助ける」的な展開です。

*3:原文では、友人の手紙に「もう僕たちの命は、或るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。」という一節があります。

*4:ひばりへのお土産だけ英語の辞書でなかったことを解釈しました。

*5:この解釈を高校の現代文の先生に教わったときの衝撃を今でも覚えています。

*6:原文によると、一度目の疫病は疱瘡(天然痘)です。この病は日本各地で神格化されており、小説内でも「ホーソー神」と呼ばれます。 参考: Wikipedia「疱瘡神」

*7:原文は青空文庫から読めます。

*8:劇中で発表年が読まれたため気づかれた方も多いと思いますが、朗読劇の 4 作品は原作の発表と同じ順序で演じられています。

*9:パンフレットより引用

*10:過去に戻れるなら、6 年前の自分に TrySail を追えと伝えたいです。