Blogarithm

ライブなどの感想を放流したり、とりとめのないことを書き留めたりします。

覚悟

 以前から心配してはいたものの、なかなか言い出せなかったことがありました。『パレイド』や『ファーストプロット』の人気が非常に高いことについて、夏川さんは心中複雑なのではないだろうか、ということです。これらの楽曲を超えるものを作れるのかという不安や重圧を、私は勝手に推察していました。

 もちろん、夏川さんが新曲をリリースしたときに帰ってくる反応のほとんどは好意的なものでしょう。その好意は決して嘘ではなく、私たちのほとんどは本当に全ての曲を愛しています。しかし、その好意の総量は必ずしも一定ではありません。CD の売上はもちろん、ストリーミングでの再生数、ハッシュタグ企画でのツイート数など、様々な形で好意は定量的に測定されます。好意の総量は嫌でも可視化され、絶えず過去の自分との競争を強いられるのです。このとき、『パレイド』のような非常に人気が高い楽曲は、それだけ高い壁となって立ちはだかります。

 このような状況に対する焦りが、『ハレノバテイクオーバー』の歌詞にあらわれているのではないか、というのが私の考えです。(無粋ながら予防線を張ると、私の推察が杞憂ならこの文章は全て的外れになります。)

どっち見てんだよ こっち向いてよ 見たことの無いドア 開けようよ

"今まで"じゃなく"これから" そうだよな

掲げた拳にちゃんと意思はあるか?

過去からの惰性ではなく、前を向いて意思を持ってついてきてほしい。聞き手にそう呼びかけるような歌詞には、力強さと表裏一体の切実さや焦燥が感じられます。

 しかし、この曲は過去というハードルに直面した不安だけが込められているわけではありません。苦しみながらも筋書きを立て、青空の下へと進んでいく決意が歌われています。

掲げた拳を後悔なんかはさせない!
けど 君にも覚悟をしてほしいんだ

この歌詞は自負の現れであるというよりは、むしろ自信が不完全であるからこその覚悟の表明なのではないでしょうか。賛同する方ばかりではないと思いますが、私はそのように解釈しました。

 ところで、「君にも覚悟をしてほしいんだ」という歌詞について、「君」は具体的にどのような覚悟を求められているのでしょうか。作詞側に明確な想定があるかもしれませんし、ないかもしれません。ここでは、私自身の「覚悟」について書いてみようと思います。

 私ははじめに、夏川さんの焦燥を(勝手に)心配していると書きました。ですがそれだけではなく、その焦燥こそがきっと次の曲をより良いものにするのだろう、とある種の期待も抱いていました。今までの楽曲―特に人気で、高いハードルとなった過去の楽曲―が、悩みや苦しみの先に行き着いたものであるからです。このことに気づいたとき、自分が他人の焦燥を期待していることを自覚し、冷や汗をかくような不気味さを覚えました。

 音楽に限らず、一般に作者が苦しんで作った作品が良いものであることは非常によくあります。もちろんそこには必要性も十分性もないですが、古今東西、具体例はいくらでも挙げられます。

 このとき、ある作者が悩み抜いた作品を愛することは、どのような意味を持つのでしょうか。作者が同時代の人であるならば、観客は自然に次の作品を求めます。次の作品もきっと苦しみ抜いて、素晴らしい作品を作ってくれるだろうと望みます。他者の苦しみを望むこの行為は、その原動力がどんな感情であろうが、呪いと呼ぶしかありません。

 表現者の側では、ある程度これを割り切ることも必要でしょう。表現が商業的であり、観客との非対称性が強い場合にはなおさらです。しかし私には、表現を受け取る側が愛と呪いの同義性を割り切ってしまうべきなのかはよくわかりません。

 私にできることは、それが呪いであると知りながら次の舞台を望むか、あるいはそれを諦めて過去だけを愛するかのどちらかです。私の愛する表現者は、後者は望まないと歌い上げています。であれば私は自分の行いから目を背けず、あえてその残酷さを割り切らず、「これから」を愛し続ける。これが私の小さな覚悟です。

 

 

 

朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」感想と考察(後編)

 

朗読劇「三つの愛と、厄災」の感想と考察の後編です。『パンドラの匣』『夜長姫と耳男』の感想を書いています。

前半 2 作品、『マスク』『風立ちぬ』の感想は下のリンクからお読みください。

iz511.hatenablog.com

 

3. 太宰治パンドラの匣

原文は青空文庫で公開されています。

3.1 あらすじ

終戦直後、主人公・ひばりは結核のため「健康道場」と称する療養所で過ごす。そこでの生活や恋愛模様を、「君」への手紙の形式で記した小説。

3.2 作品の感想

作者とタイトルからかなり暗い物語を想像していましたが、時代背景を除けば最近の作品と言われてもわからないくらいの明るい恋愛小説だったので驚きました。タイトルの『パンドラの匣』も劇中で少し触れられる程度で、題から想像されるような主人公が結核で苦しむ描写はほとんどありません*1。戦争を経た思想の変化についての描写も少しはありますが、それは価値観を新たにした主人公が病気を悲観していないことが分かる程度です。恋愛小説として以外の解釈が何も思いつかなかった、というのが初見時の感想でした。

思想的描写が少なかった理由は単純で、劇の時間的制約によるものだと思われます。元の小説がそれなりに長いため、主要なシーンのみを繋いだようです。それではなぜ、「三つの愛と、厄災」にこの小説が選ばれ、恋愛を中心に構成されたのでしょうか。劇作家さんの真意は全く違うかもしれませんが、私は勝手に二つほど理由を考えました。

一つ目は少しいやらしい見方ですが、恋愛小説は見せ場が作りやすいからではないかと思っています。今回は声優さんが出演する朗読劇ですので、観劇するのは(私もそうですが)演者さんのファンが中心になります。あえて思想的な場面を少なくし、恋愛の物語を演じる演者さんの魅力を最大限に引き出そうとしたのだと思います。私も色々な立場で恋愛を演じる夏川さんが見られて嬉しかったです。

私がこのような解釈に至ったのは、エンターテインメント性を強く意識したと思われる場面が終盤にあるからです。その場面とは、ひばりと竹さんが

「やっとるか?」
「やっとるぞ」
「がんばれよ」
「……よしきた」

という一連の挨拶を交わすシーンです。物語のクライマックスとなる情感のこもったシーンですが、なんとここの掛け合いは原作にありません。

ここの台詞がかなり現代の小説らしいと感じられたので、青空文庫をあたって原作にないとわかったときには驚きながらも得心がいく思いでした。何度か出た台詞を違う状況と意味で使う手法*2は悪く言えばベタですが、それだけ多くの人の心を動かす王道の手法であるともいえます。噺屋の純粋な技術が求められる古典落語のように、王道の展開だからこそ演者さんの魅力がより引き出されたのではないでしょうか。

二つ目の理由は、もっと気軽に文学作品に触れてほしい、という思いではないでしょうか。今回観劇された方で、普段から明治時代の文学作品に触れているという方はそう多くないでしょう。日本文学と聞いて高校の授業などを思い出し、難しそうだと思われた方も少なからずいらっしゃると思います。現代文の授業のように(そして私がやっているように)空回りするくらい深読みするのも読み方の一つではありますが、それが正しいわけでも高尚なわけでもなく、もっとシンプルに作品を楽しんでいいのだと感じました。

とはいえ私は深読みしかできないので、『パンドラの匣』という題についての考察を少し書きます。この小説は手紙の形式を取っているので、視点は手紙を受け取る友人にあると解釈することもできます。友人はひばりに「古いな」と指摘されますが、ここから戦後の価値観の変容にややついていけていないことが推察されます*3。手のひらを返すように新たな価値観に適応したひばりを含む多くの人々に対し、友人はやりきれない思いを抱いているようです*4。そんな友人にとっては終戦に伴うパラダイムシフトこそが「パンドラの匣」を開けた結果だったのでしょう。

この解釈は非常に遠回りなようですが、それなりに根拠はあります。その一つは快活で「人間に真の〈絶望〉はあり得ない」と唱えるひばりと自殺を遂げた作者・太宰治が似ても似つかないということです。作家の思想と登場人物の思想は必ずしも関係しませんが、あえて自分と対照的な人物としてひばりを創造したとも考えられます。ところでこの小説の発表は終戦からたった二ヶ月後であり、GHQ による検閲が行われている時期でした。検閲がどの程度厳しかったのかは分かりませんが、価値観の変化を直接的に批判することは避け、作家と対照的なひばりを通して間接的に違和感を訴えたのかもしれません。ちなみに同じ作家の『走れメロス』にも、メロスとセリヌンティウスの友情を羨む王様こそが太宰と重なる真の主人公であるとする解釈があります*5

3.3 劇の感想

現代的にいえばツンデレのマア坊、関西弁で大人の魅力が光る竹さん、そして若者らしい明るさと初々しさにあふれたひばり・友人とそれぞれの人物が個性的で、見ていて楽しかったです。私が特に好きなのはマア坊を演じる夏川さんの演技です。頬を膨らませたり、泣きそうな声でひばりに詰め寄ったりと、どのシーンも可愛くて可愛くて仕方ありません。

軽口を叩きあうひばりと友人のコンビも、男子学生の青春が感じられて心和みました。竹さんの関西弁を真似るひばりの絶妙ないやらしさや、真面目な友人が竹さんに照れて緊張しきりな様子の演技にとてもリアリティがあり、すごく引き込まれました。

3.4 細かい話

ひばりの手紙に、「古い気取り」という語句が現れます。これを「トライセイル」と同じ発音で一語で読まれる方と、「ひかるカケラ」と同じ発音で二語に区切る方がいらっしゃいました。作家の意図はおそらく後者ですが、現代では「気取り」という名詞はもっぱら接尾語として用いられるため前者の発音が現れたのでしょう。言葉の移り変わりを感じました。

4. 坂口安吾『夜長姫と耳男』

原文は青空文庫で公開されています。

4.1 あらすじ

飛騨の仏像職人・耳男は年若い夜長姫のため、護身仏の制作を命じられる。しかしその耳を馬鹿にされた挙げ句に斬り落とされた耳男は、意趣返しとして化け物の顔の仏像を作り上げる。ついに仏像が完成した年、村には疫病が訪れ、夜長姫は本性を表す。

4.2 物語の感想

全く物語を知らなかったので、衝撃的な展開に驚くばかりでした。最初に耳が斬り落とされるシーンまでは一切物騒な描写がないので、耳男に勝るとも劣らないくらい驚いていたと思います。その後も迫力のある展開が続き、民話的な世界が眼前に浮かんでくるようでした。

この作品は前近代を舞台にした暗示的な物語であり、創作論、恋愛論といった多様な観点から考察されています。ここでは主に、夜長姫が何を象徴しているのかをキーとなる疫病と合わせて考えてみたいと思います。

一番単純に考えれば、夜長姫は「死」そのものを象徴していると言えるでしょう。死は地位や善悪といった人間世界の論理とは無関係に私たちに訪れます。そこでは究極の平等が達成され、何かと苦しみの絶えない生から人間が解放・救済されるとさえも考えられます。疫病がときに神格化される*6のも、人々が死に対し単なる恐怖以上の感情を抱いているからでしょう。死の持つこのような性質が、夜長姫の無邪気かつ不条理な性格、そして恐ろしいほどの魅力に反映されているといえます。

美しさに魅了されながらも、耳男は化け物の像の制作を通して死と戦うことを選択します。その原動力となったのは耳を斬り落とされた痛みであり、夜長姫の笑顔に圧倒される恐怖です。生存本能は死に瀕して最も力強くなり、化け物の像として結実します。一方、耳男がその次に彫ったヒメの顔をもつ弥勒が評価されなかったのは、当初の痛みや恐怖が薄らいでいたからだと考えられます。

小説の後半、二度目の疫病の際に夜長姫は村人の死に見惚れる様子を見せ、村中の人々が死ぬよう祈り始めます。その姿の美しさと怖ろしさに「人間世界はもたない」と感じた耳男は、激しく動揺しながらも夜長姫を殺します。

今までの解釈に沿って考えれば、この殺人は耳男が死の誘惑を乗り越えたことを示しています。しかしその超克は決して、生への決意と覚悟に満ちた力強いものではありません。刺されても平然として耳男の創作に助言さえしてみせるヒメと対照的に、あたかもヒメから逃げるように殺す結果となりました。

以上の解釈は、エピローグで紹介された同じ作家による追悼文『不良少年とキリスト*7』の内容と概ね一致しています。

人間は、生きる事が全部である。死ねば、なくなる。
然し、生きていると疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思うときがあるですよ。戦い抜く、言うは易く、疲れるね。

人間は決して勝ちません。ただ、負けないのだ。

生を無条件に称賛するのではなく、その苦しさと空虚さに向き合いながらも前に進んでいく作家の姿勢こそが、彼の小説や追悼文が私たちの心を動かし続ける理由なのだと思います。

さて、夜長姫の象徴性について、一歩踏み込んだ解釈をしてみます。夜長姫は、特に戦争による死を象徴しているのではないでしょうか。

この小説が発表されたのは 1953 年、太平洋戦争の終戦から 8 年後のことです*8。それを踏まえると、夜長姫の精神性は戦時中に規範とされたものと重なってきます。耳を削いだり血を飲み干したりする残虐な行為への無頓着さや、自分のクニの人が「キリキリ舞い」をして死ぬことを賛美する様子は戦時下の狂気と酷似しています。

夜長姫が戦争の象徴だとすると、この小説全体が戦争への警鐘だと捉えられます。例えば耳男は蛇の生き血を飲む行為を、夜長姫が真似るまで怖ろしいと認識していませんでした。夜長姫の美しさに我を忘れ耳男が自らの残酷さに気が付かなかったように、戦争は魅力的であり私たちの正気を麻痺させかねないと警告を発しているように思えます。『パンドラの匣』の登場人物のように終戦直後に思想を翻した人々は、いつでも戦争の魅力に再び取り憑かれる危険があるのです。

夜長姫と戦争を重ねる解釈はある程度一般的なようです。観劇後に知ったのですが、劇作家の方は 3 年前に「〈反戦〉をテーマに構成」*9した『三つの愛と、殺人』を上演されていて、この作品も演じられたそうです。私が当時全く存じ上げなかったことをかなり悔やんでいます*10

4.3 劇の感想

登場人物、特に夜長姫の解釈が演者さんによって大きく分かれたことが感じられ、非常に面白かった作品でした。

夏川椎菜さんと鶴野有紗さんの演技は、夜長姫の無邪気さが印象的でした。戸を叩くシーンの夏川さんの楽しげなのに恐怖を感じさせる声や、村人が次々と死ぬシーンでの鶴野さんの純粋な笑顔が鮮烈に思い出されます。

一方、山崎はるかさんの夜長姫は耳男に明確な悪意を持っていると感じました。倫理観を持たない (amoral) 超越的な存在としてではなく、倫理にあえて反逆する (immoral) 人間的な存在として夜長姫を演じられています。仮に私がこの小説を一人で読んでいたら絶対に辿り着けなかった解釈だと感じ、朗読劇に来てよかったと改めて感じました。

一人の人間としての夜長姫について、私は次のように解釈しました。夜長姫は長者の娘であることやその美貌だけが取り沙汰され、その内面を見ようとする人はどこにもいません。時代を考えると、政略結婚の道具として使われることも予期していたのでしょう。同じく美しさだけが評価された奴隷・江奈古への強い共感や社会への敵愾心が生まれるのは自然なことです。

夜長姫の解釈の違いはラストシーンにも現れています。夏川さんと鶴野さんの夜長姫は刺されても穏やかに話し続けますが、山崎さんの演技では苦しそうに、息も絶え絶えに話しています。耳男に対する台詞の中に、夜長姫自身の感情が鋭く伝わってきました。

全体的に迫力のあるシーンが多く、圧倒され続けた作品でした。どれか一作品だけを勧められるとしたら、迷わずこの作品を選びます。

4.4 余談

おそらく偶然ですが、私の見た夜長姫は全員茶髪か金髪でした。そのせいで頭の中で思い浮かべる夜長姫は必ず金髪をしています。時代設定を考えると多分黒髪ですが、あえて金髪で映像化してみても面白いキャラクターだと思います。

 

5. あとがき

ここまで読んでいただきありがとうございました。前編と合わせて一万字を超える分量となってしまい、自分で驚いています。

感想が長くなってしまったのも、朗読劇にそれだけ心を動かされたからです。初めて観たこの朗読劇を、私は一生忘れないと思います。

素晴らしい朗読劇に出会わせていただいた出演者の方々とスタッフの皆様、そして朗読劇を知るきっかけとなった夏川椎菜さんに感謝をお伝えしたいと思います。ありがとうございました。

*1:そのためか、1947 年に映画化されたときの題は『看護婦の日記』に変更されています。

*2:平たく言えば、「1 話でヒロインに助けられた主人公が最終話でヒロインを助ける」的な展開です。

*3:原文では、友人の手紙に「もう僕たちの命は、或るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。」という一節があります。

*4:ひばりへのお土産だけ英語の辞書でなかったことを解釈しました。

*5:この解釈を高校の現代文の先生に教わったときの衝撃を今でも覚えています。

*6:原文によると、一度目の疫病は疱瘡(天然痘)です。この病は日本各地で神格化されており、小説内でも「ホーソー神」と呼ばれます。 参考: Wikipedia「疱瘡神」

*7:原文は青空文庫から読めます。

*8:劇中で発表年が読まれたため気づかれた方も多いと思いますが、朗読劇の 4 作品は原作の発表と同じ順序で演じられています。

*9:パンフレットより引用

*10:過去に戻れるなら、6 年前の自分に TrySail を追えと伝えたいです。

朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」感想と考察(前編)

0. まえがき

朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」の感想と考察の前篇です。
『マスク』と『風立ちぬ』の感想を書きました。古典的な作品ではありますがネタバレを含みます。

私は夏川椎菜さんがご出演された後半 4 公演に参加しました。

声優さん個人の感想は控えめに、作品自体への感想や考察を中心に記そうと思います。そうしないと文章の半分が「夏川さんかわいい」で埋まってしまいますので。

想定以上に長くなってしまったので、一部分だけでも読んでいただければ幸いです。
伝えたいことは

朗読劇に行ったことがない方はぜひ行ってみてください。
1 公演のみ観劇された方は、次はぜひ 2 公演以上を比較してみてください。

ということに尽きます。

1. 菊池寛『マスク』

記事執筆現在、原作は高松市のサイトから PDF でダウンロードできます。

1.1 あらすじ

体の弱い主人公は人一倍スペイン風邪の予防に腐心するが、感染が一旦収束すると気恥ずかしくなりマスクを外す。主人公はその後マスクを着けた一人の男を見かけ猛烈な嫌悪感を抱き、その嫌悪感について内省する。

1.2 作品の感想

恩讐の彼方に』などで知られる菊池寛*1の短編小説です。2020年には COVID-19 の流行に合わせて再び出版されました。

人により感染へのリスク意識が大きく異なる様子や新聞に載る死亡者数*2の増減に一喜一憂する様子は現在と非常に似通っています。私達の知的レベルは百年前、あるいはもっと昔から大して変化していないようです。マスクが「ウイルスの脅威を思い出さ」せる不愉快なものとなった、という描写は数年後を予言しているかのようです。

このように非常にタイムリーな小説ですが、この小説はそれだけにとどまらない魅力を持っていると感じます。

小説の最後に、主人公は自身を省みます。(以降、特記のない引用元は販売されていた台本です。傍点など一部の強調を省いています。)

自分があの男を不快に思ったのは、強い者に対する、弱い者のコンプレックスではなかったか?

自分が世間を気にして、やりかねていた事を、あの青年は勇敢にも、やり遂げているのだ。あの男を不快に感じたのは、そうした彼という人間の〈勇気〉に、圧迫された〈臆病〉な心なのではなかったかと、弱い自分はそう思った。

このようなコンプレックスは普遍的なものではないでしょうか。とすれば、この小説を「感染症文学」(造語です)として片付けてしまうのは、少しもったいない気がします。

自己表現の得意な者への、苦手な者のコンプレックス*3。夢を追う者に対する、諦めた者のコンプレックス。おそらく誰もが誰かを僻み、誰かに僻まれています。

自らの信念を貫けなかった主人公はマスクの男を嫌悪しますが、賢明にもそれが自身の僻みに由来するものだと気づきます。そして、私達が抱く他人への嫌悪の源はコンプレックスではないかと、読者に問いかけているのでしょう。

劇の雰囲気作りの目的が強い作品選定でしたが、単体でもとても面白い作品だと思います。

1.3 劇の感想

朗読劇に行くのは初めてだったので、地の文を読み上げる速さにまず驚きました。そんな速さでも、声の聞き取りやすさのおかげでしょうか、内容が素直に頭に入ってきました。さすがは声優さんだな、と感動を覚えました。

毎回楽しみにしていたのが「医者」の演技です。目の前にいる若い声優さんから、その見た目とは程遠い「ベテランの内科医」そのものの甲高い声が発せられるのが面白くて仕方ありませんでした*4。これだけでも朗読劇に来た価値があると思います。まだ観劇したことのない方はぜひ行ってみてください。

2. 堀辰雄風立ちぬ

原文は青空文庫で公開されています。

2.1 あらすじ

主人公は結核を患った婚約者・節子に付き添いサナトリウムに移る。そこでの二人の〈愛の生活〉と、節子亡き後にそれを回顧する主人公の物語。

2.2 作品の感想

節子がとにかく健気で、こちらまで胸が苦しくなるようでした。限られた時間と不自由な状況の中にあるからこそ、何気ない日常に幸せを見出す二人の様子*5が胸にしみます。

この小説は、病気の有無に関わらず私達はみな限りある存在であり、だからこそ世界は美しく感じられるのだということを思い出させてくれます。朗読劇の最後に観客に呼びかけられた「生きていられるだけ、生きましょうね」という台詞に、劇作家さんや演者さんの強い思いが込められています。私も思わず涙ぐんでしまいました。

しかし、それと同時に一つの疑問を抱きました。この小説は、ナレーションが語ったように「美しい小説」なのでしょうか。というのも、主人公と節子が愛し合いながらも決定的に断絶していくように感じられたからです。

二人のすれ違いを最初に感じたのは、「第一楽章 春」の帽子のシーンです。

「帽子なんか取り出して、何をしていたんだい?」
「お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。いつになったら被れるようになるんだか知れやしないのに……おかしなお父様でしょう?」
「どれ、ちょっとかぶってみて御覧」
「ここで?厭よ、そんなこと」

節子は回復した暁に、外で帽子をかぶることを望んでいます。この帽子は外でしか使えないからこそ、回復して再び外出することを約束するお守りとなるのでしょう。屋内で帽子をかぶってしまったら、お守りとしての意義は失われます。

このシーンは、帽子にすがらねばならないほど不安に陥り死の予感さえ感じていた病身の節子の意図を、健康であるがゆえに主人公が想像できなかった結果であると思われます。数回登場する「ずっと後になってね、今の生活を思い出すようなことがあったら」というフレーズも含め、健康で未来のある主人公とそうでない節子の断絶を意識させる場面は多数あります。

さらに主人公は、病人に対して心理的な距離を置いています。わかりやすいのはサナトリウムの中の「一番の重症患者」に対してです。誰かにとっての「節子」であるかもしれないその患者の咳を、主人公は露骨に「気味の悪い、ぞっとするような咳」と表現します。また「第三楽章 冬」では明かりに集まろうとしてガラスに傷つけられる蛾に困っている様子が見られます。この蛾は必死に生きようとしても生きられない病人と重なり、主人公の無意識下の心情がそれとなく伝わります。

これは演者の一人・鶴野有紗さんのブログを読んで初めて気がついたのですが、地の文で節子を表す言葉は「お前」から「節子」、そして「病人」へと移っていきます。ここにも距離感の変化が現れています。

このような立場の違いに起因する断絶が、残酷なほどリアルに描写されていると感じました。終盤に登場する神父や詩篇はそれまでの主人公を想起させますが、節子を亡くした主人公はかつての断絶を意識させられ、虚しく感じたのでしょう。

それではなぜ、この作品ではあえて断絶の描写がなされているのでしょうか。私の考えでは、その理由の一つは節子を小説という芸術作品に落とし込むことに対する主人公(と堀辰雄)の罪の意識です。

ナレーションでも少し触れられましたが、ここで『風立ちぬ』の執筆の背景を見てみましょう。Wikipedia からの二次引用*6ですが、節子のモデルは、作者・堀辰雄と婚約し、その翌年に結核で死去した矢野綾子であるとされています。さらに原作は日記の形式で書かれており、私小説としての性格を意識させます。このことを踏まえると、『風立ちぬ』にも近しい人間の生死を芸術とみなすことに対する葛藤が描かれているように思われます。

物語中盤、堀辰雄と同様、主人公は死にゆく恋人を小説にすることを決意します。そしてそのために「幸福になっていて貰いたい」とまで節子に伝えます。主人公の思考の重心が節子から外れている様子が見て取れますが、主人公はその後これを自覚します。

恋人の腕に抱かれながら、さも幸福そうに死んでいく一人の女。男はそんな気高い死者の心に助けられながら、ようやくささやかな〈幸福〉を、信じられるようになる……。そのとき突然、私はまるで夢から覚めたかのように、なんともいえない〈恐怖〉と〈羞恥心〉とに襲われた。

主人公はまるで節子が自分のカタルシスのために死ぬかのように考えていること自覚し、〈羞恥心〉を覚えます。矢野綾子の死を小説にする形で利用した堀にも、同様の羞恥心があったのかもしれません。だとすれば、『風立ちぬ』が大いに評価され「サナトリウム文学の地平を切り拓いた」結果となったことは非常に皮肉的です。

風立ちぬ』は多様な解釈が可能な小説ですが、今回の構成の方はこのような解釈も考慮されていたのだと私は思っています。今回の朗読劇では各章の前に「第一楽章 春」とタイトルが読まれましたが、実はこの「第  n 楽章」という文言は原作にありません。

これはプロローグの題が「序曲」であることから派生した表現でしょう。そもそも堀辰雄がプロローグの題を「序曲」とした意図は芸術性の強調であると考えます。節子、そして矢野綾子の人生があたかも音楽のように、過剰に美しく語られていることを表現しているのではないでしょうか。劇作家の方はそれをさらに強調するため、各章の冒頭で「これは芸術である」と宣言するような構成にしたのだと私は思います。

これはもはや邪推の域ですが、劇作家の方自身にも現実の人間が苦しんでいるパンデミックを題材とすることに葛藤があり、その表出としてこの演出を選んだのかもしれません。もしこの考えが正しければ、私が違和感を抱いた「美しい小説」というナレーションは劇作家の方の自虐的な皮肉なのでしょう*7

また違った印象を受けるかもしれませんので、原作もちゃんと読んでみようと思います。

2.3 劇の感想

夏川さんが咳き込んでいるのを見ると駆け寄って助けたくなりました。というのは半分冗談ですが、それだけ苦しそうな様子と、弱々しく笑顔を浮かべる健気な演技に心を奪われました。

夏川さんと鶴野さんは健気さを強調する王道の演技でしたが、山崎はるかさんの演技は少し違ったように感じました。節子の大人っぽい妖艶さと諦観を前面に出されていて、節子の違った魅力が浮かんでくるようでした。

男性役の台詞では「おれは人並み以上に幸福でも、不幸でもないようだ」のあたりに演技の幅が見られました。大変申し訳無いことにお名前を失念してしまったのですが、諦めたように淡々と演じられる方、感傷的に上ずった声で演じられる方がいらっしゃいました。私は後者の演技に近い解釈をしていましたが、前者の解釈も面白いです。

演者によって解釈が変わり、演技も変わってくるという朗読劇の醍醐味を特に感じられた作品でした。1 公演のみ観劇された方は、次はぜひ 2 公演以上を比較してみてください。

2.4 余談

細かい疑問点を二つ挙げるので、暇な方はお読みください。一つ目は、節子のレントゲンを見るシーンの違和感についてです。

「真っ白でしょう?思ってたより、だいぶ拡がってるなあ」
節子の左胸の写真には、まるで不思議な花のような、暗い(びょう)(そう)ができていた。

このシーンには毎回混乱していました。結核の病巣が「真っ白」といわれた直後に「暗い」と評されているのです。台本のミスにしては分かりやすすぎ、演者さんが気づかないとも思えません。

ちなみに実際の結核は黒っぽい影として映ります(リンク先に画像あり)。原作には「真っ白」という台詞はなく、正確に「暗い」とだけ描写されています。

おそらく意図的に加えられた矛盾ですが、その真意が全くわかりません。わかった方は何かコメントいただけると嬉しいです。

細かい疑問の二つ目は、登場人物たちの感染対策についてです。結核結核菌による感染症ですが、患者が隔離されている様子はありませんでした。なぜでしょうか。

こちらの疑問点の答えは結核の性質にあります。文献によって差はありますが、結核菌感染者の発病率は 10% 程度とされています。つまり、感染者と接していても 9 割方の人は健康でいられるのです。さらに、結核菌は潜伏期間が年単位に及ぶこともあるほど長く*8接触と発症の因果関係は体感できないのだと思われます。これらのことから、当時の人々は患者との接触を避ける意識に乏しかったのでしょう。

このような意識のせいかは分かりませんが、ラストシーンで主人公は不穏な空咳をします。これは原作にない表現であり、堀辰雄自身も結核で亡くなったことから着想を得た表現なのでしょう。

後編へ続く

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。内容のことでも誤字脱字のことでも、コメントを頂けると嬉しいです。

パンドラの匣』『夜長姫と耳男』の感想は後編(書き次第リンク予定)で書くことにします。

2021/11/12 追記:
書きました(リンク貼るの忘れてました)。

 

iz511.hatenablog.com

 

 

*1:Wikipedia で知ったのですが、下の名前は作家としては「かん」、本名では「ひろし」と読むらしいです。

*2:当時「感染者数」は計測できなかったのでしょう

*3:この物語を聞いたとき私は『ステテクレバー』を思い出しました

*4:どうでもいいのですが、なぜ創作における内科医は甲高い声と相場が決まっているのでしょうか?

*5:私は悪いオタクなので、応援している声優さんと異性の声優さんの仲睦まじい演技を見ると心穏やかではいられませんでしたが……。

*6:学校に提出する文章では絶対にやめましょう!

*7:単に私の曲解で、そんな意図はないかもしれませんが……

*8:出典: MSD マニュアル