朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」感想と考察(前編)
0. まえがき
朗読劇「三つの愛と、厄災(パンデミック)」の感想と考察の前篇です。
『マスク』と『風立ちぬ』の感想を書きました。古典的な作品ではありますがネタバレを含みます。
私は夏川椎菜さんがご出演された後半 4 公演に参加しました。
声優さん個人の感想は控えめに、作品自体への感想や考察を中心に記そうと思います。そうしないと文章の半分が「夏川さんかわいい」で埋まってしまいますので。
想定以上に長くなってしまったので、一部分だけでも読んでいただければ幸いです。
伝えたいことは
朗読劇に行ったことがない方はぜひ行ってみてください。
1 公演のみ観劇された方は、次はぜひ 2 公演以上を比較してみてください。
ということに尽きます。
1. 菊池寛『マスク』
記事執筆現在、原作は高松市のサイトから PDF でダウンロードできます。
1.1 あらすじ
体の弱い主人公は人一倍スペイン風邪の予防に腐心するが、感染が一旦収束すると気恥ずかしくなりマスクを外す。主人公はその後マスクを着けた一人の男を見かけ猛烈な嫌悪感を抱き、その嫌悪感について内省する。
1.2 作品の感想
『恩讐の彼方に』などで知られる菊池寛*1の短編小説です。2020年には COVID-19 の流行に合わせて再び出版されました。
人により感染へのリスク意識が大きく異なる様子や新聞に載る死亡者数*2の増減に一喜一憂する様子は現在と非常に似通っています。私達の知的レベルは百年前、あるいはもっと昔から大して変化していないようです。マスクが「ウイルスの脅威を思い出さ」せる不愉快なものとなった、という描写は数年後を予言しているかのようです。
このように非常にタイムリーな小説ですが、この小説はそれだけにとどまらない魅力を持っていると感じます。
小説の最後に、主人公は自身を省みます。(以降、特記のない引用元は販売されていた台本です。傍点など一部の強調を省いています。)
自分があの男を不快に思ったのは、強い者に対する、弱い者のコンプレックスではなかったか?
自分が世間を気にして、やりかねていた事を、あの青年は勇敢にも、やり遂げているのだ。あの男を不快に感じたのは、そうした彼という人間の〈勇気〉に、圧迫された〈臆病〉な心なのではなかったかと、弱い自分はそう思った。
このようなコンプレックスは普遍的なものではないでしょうか。とすれば、この小説を「感染症文学」(造語です)として片付けてしまうのは、少しもったいない気がします。
自己表現の得意な者への、苦手な者のコンプレックス*3。夢を追う者に対する、諦めた者のコンプレックス。おそらく誰もが誰かを僻み、誰かに僻まれています。
自らの信念を貫けなかった主人公はマスクの男を嫌悪しますが、賢明にもそれが自身の僻みに由来するものだと気づきます。そして、私達が抱く他人への嫌悪の源はコンプレックスではないかと、読者に問いかけているのでしょう。
劇の雰囲気作りの目的が強い作品選定でしたが、単体でもとても面白い作品だと思います。
1.3 劇の感想
朗読劇に行くのは初めてだったので、地の文を読み上げる速さにまず驚きました。そんな速さでも、声の聞き取りやすさのおかげでしょうか、内容が素直に頭に入ってきました。さすがは声優さんだな、と感動を覚えました。
毎回楽しみにしていたのが「医者」の演技です。目の前にいる若い声優さんから、その見た目とは程遠い「ベテランの内科医」そのものの甲高い声が発せられるのが面白くて仕方ありませんでした*4。これだけでも朗読劇に来た価値があると思います。まだ観劇したことのない方はぜひ行ってみてください。
2. 堀辰雄『風立ちぬ』
原文は青空文庫で公開されています。
2.1 あらすじ
主人公は結核を患った婚約者・節子に付き添いサナトリウムに移る。そこでの二人の〈愛の生活〉と、節子亡き後にそれを回顧する主人公の物語。
2.2 作品の感想
節子がとにかく健気で、こちらまで胸が苦しくなるようでした。限られた時間と不自由な状況の中にあるからこそ、何気ない日常に幸せを見出す二人の様子*5が胸にしみます。
この小説は、病気の有無に関わらず私達はみな限りある存在であり、だからこそ世界は美しく感じられるのだということを思い出させてくれます。朗読劇の最後に観客に呼びかけられた「生きていられるだけ、生きましょうね」という台詞に、劇作家さんや演者さんの強い思いが込められています。私も思わず涙ぐんでしまいました。
しかし、それと同時に一つの疑問を抱きました。この小説は、ナレーションが語ったように「美しい小説」なのでしょうか。というのも、主人公と節子が愛し合いながらも決定的に断絶していくように感じられたからです。
二人のすれ違いを最初に感じたのは、「第一楽章 春」の帽子のシーンです。
「帽子なんか取り出して、何をしていたんだい?」
「お父様ったら、きのう買っておいでになったのよ。いつになったら被れるようになるんだか知れやしないのに……おかしなお父様でしょう?」
「どれ、ちょっとかぶってみて御覧」
「ここで?厭よ、そんなこと」
節子は回復した暁に、外で帽子をかぶることを望んでいます。この帽子は外でしか使えないからこそ、回復して再び外出することを約束するお守りとなるのでしょう。屋内で帽子をかぶってしまったら、お守りとしての意義は失われます。
このシーンは、帽子にすがらねばならないほど不安に陥り死の予感さえ感じていた病身の節子の意図を、健康であるがゆえに主人公が想像できなかった結果であると思われます。数回登場する「ずっと後になってね、今の生活を思い出すようなことがあったら」というフレーズも含め、健康で未来のある主人公とそうでない節子の断絶を意識させる場面は多数あります。
さらに主人公は、病人に対して心理的な距離を置いています。わかりやすいのはサナトリウムの中の「一番の重症患者」に対してです。誰かにとっての「節子」であるかもしれないその患者の咳を、主人公は露骨に「気味の悪い、ぞっとするような咳」と表現します。また「第三楽章 冬」では明かりに集まろうとしてガラスに傷つけられる蛾に困っている様子が見られます。この蛾は必死に生きようとしても生きられない病人と重なり、主人公の無意識下の心情がそれとなく伝わります。
これは演者の一人・鶴野有紗さんのブログを読んで初めて気がついたのですが、地の文で節子を表す言葉は「お前」から「節子」、そして「病人」へと移っていきます。ここにも距離感の変化が現れています。
このような立場の違いに起因する断絶が、残酷なほどリアルに描写されていると感じました。終盤に登場する神父や詩篇はそれまでの主人公を想起させますが、節子を亡くした主人公はかつての断絶を意識させられ、虚しく感じたのでしょう。
それではなぜ、この作品ではあえて断絶の描写がなされているのでしょうか。私の考えでは、その理由の一つは節子を小説という芸術作品に落とし込むことに対する主人公(と堀辰雄)の罪の意識です。
ナレーションでも少し触れられましたが、ここで『風立ちぬ』の執筆の背景を見てみましょう。Wikipedia からの二次引用*6ですが、節子のモデルは、作者・堀辰雄と婚約し、その翌年に結核で死去した矢野綾子であるとされています。さらに原作は日記の形式で書かれており、私小説としての性格を意識させます。このことを踏まえると、『風立ちぬ』にも近しい人間の生死を芸術とみなすことに対する葛藤が描かれているように思われます。
物語中盤、堀辰雄と同様、主人公は死にゆく恋人を小説にすることを決意します。そしてそのために「幸福になっていて貰いたい」とまで節子に伝えます。主人公の思考の重心が節子から外れている様子が見て取れますが、主人公はその後これを自覚します。
恋人の腕に抱かれながら、さも幸福そうに死んでいく一人の女。男はそんな気高い死者の心に助けられながら、ようやくささやかな〈幸福〉を、信じられるようになる……。そのとき突然、私はまるで夢から覚めたかのように、なんともいえない〈恐怖〉と〈羞恥心〉とに襲われた。
主人公はまるで節子が自分のカタルシスのために死ぬかのように考えていること自覚し、〈羞恥心〉を覚えます。矢野綾子の死を小説にする形で利用した堀にも、同様の羞恥心があったのかもしれません。だとすれば、『風立ちぬ』が大いに評価され「サナトリウム文学の地平を切り拓いた」結果となったことは非常に皮肉的です。
『風立ちぬ』は多様な解釈が可能な小説ですが、今回の構成の方はこのような解釈も考慮されていたのだと私は思っています。今回の朗読劇では各章の前に「第一楽章 春」とタイトルが読まれましたが、実はこの「第 楽章」という文言は原作にありません。
これはプロローグの題が「序曲」であることから派生した表現でしょう。そもそも堀辰雄がプロローグの題を「序曲」とした意図は芸術性の強調であると考えます。節子、そして矢野綾子の人生があたかも音楽のように、過剰に美しく語られていることを表現しているのではないでしょうか。劇作家の方はそれをさらに強調するため、各章の冒頭で「これは芸術である」と宣言するような構成にしたのだと私は思います。
これはもはや邪推の域ですが、劇作家の方自身にも現実の人間が苦しんでいるパンデミックを題材とすることに葛藤があり、その表出としてこの演出を選んだのかもしれません。もしこの考えが正しければ、私が違和感を抱いた「美しい小説」というナレーションは劇作家の方の自虐的な皮肉なのでしょう*7。
また違った印象を受けるかもしれませんので、原作もちゃんと読んでみようと思います。
2.3 劇の感想
夏川さんが咳き込んでいるのを見ると駆け寄って助けたくなりました。というのは半分冗談ですが、それだけ苦しそうな様子と、弱々しく笑顔を浮かべる健気な演技に心を奪われました。
夏川さんと鶴野さんは健気さを強調する王道の演技でしたが、山崎はるかさんの演技は少し違ったように感じました。節子の大人っぽい妖艶さと諦観を前面に出されていて、節子の違った魅力が浮かんでくるようでした。
男性役の台詞では「おれは人並み以上に幸福でも、不幸でもないようだ」のあたりに演技の幅が見られました。大変申し訳無いことにお名前を失念してしまったのですが、諦めたように淡々と演じられる方、感傷的に上ずった声で演じられる方がいらっしゃいました。私は後者の演技に近い解釈をしていましたが、前者の解釈も面白いです。
演者によって解釈が変わり、演技も変わってくるという朗読劇の醍醐味を特に感じられた作品でした。1 公演のみ観劇された方は、次はぜひ 2 公演以上を比較してみてください。
2.4 余談
細かい疑問点を二つ挙げるので、暇な方はお読みください。一つ目は、節子のレントゲンを見るシーンの違和感についてです。
「真っ白でしょう?思ってたより、だいぶ拡がってるなあ」
節子の左胸の写真には、まるで不思議な花のような、暗い病 竃 ができていた。
このシーンには毎回混乱していました。結核の病巣が「真っ白」といわれた直後に「暗い」と評されているのです。台本のミスにしては分かりやすすぎ、演者さんが気づかないとも思えません。
ちなみに実際の結核は黒っぽい影として映ります(リンク先に画像あり)。原作には「真っ白」という台詞はなく、正確に「暗い」とだけ描写されています。
おそらく意図的に加えられた矛盾ですが、その真意が全くわかりません。わかった方は何かコメントいただけると嬉しいです。
細かい疑問の二つ目は、登場人物たちの感染対策についてです。結核は結核菌による感染症ですが、患者が隔離されている様子はありませんでした。なぜでしょうか。
こちらの疑問点の答えは結核の性質にあります。文献によって差はありますが、結核菌感染者の発病率は 10% 程度とされています。つまり、感染者と接していても 9 割方の人は健康でいられるのです。さらに、結核菌は潜伏期間が年単位に及ぶこともあるほど長く*8、接触と発症の因果関係は体感できないのだと思われます。これらのことから、当時の人々は患者との接触を避ける意識に乏しかったのでしょう。
このような意識のせいかは分かりませんが、ラストシーンで主人公は不穏な空咳をします。これは原作にない表現であり、堀辰雄自身も結核で亡くなったことから着想を得た表現なのでしょう。
後編へ続く
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。内容のことでも誤字脱字のことでも、コメントを頂けると嬉しいです。
『パンドラの匣』『夜長姫と耳男』の感想は後編(書き次第リンク予定)で書くことにします。
2021/11/12 追記:
書きました(リンク貼るの忘れてました)。